おれはめったにテレビを見ない。あまりに下らない番組しか流れていないことと、そんなものを見る暇があったら別なことをするからだ。特に最近はどのチャンネルを見てもやっていることは皆同じだし、出てくる顔も似たようなものだ。見る価値を感じない。で、ニュースくらいならまだマシだろうと昨日久しぶりにテレビに灯を入れてみたのだが、おれの考えもまだまだ甘かったようだ。
ちょうどチャンネルが合っていたのが某すぽるとをやっている局だった。ニュースの内容もさして目新しいものはなく、ただフィルター掛けされた北のミサイル報道をやり、続いて神奈川の交通事故の判決の話題に移った。
この交通事故については、改正道路交通法の施工直後だったことや被害者数が多かったことなどもあって比較的大きく報道されたため、ご記憶の方も多くいらっしゃるのではないか。一応、今回の判決に関する記事を引用しておこう。
--- 以下引用
危険運転の被告に懲役16年 横浜の高校生9人死傷事故
横浜市都筑区の私立サレジオ学院前で昨年10月、下校中の高校生の列に乗用車が突っ込み9人が死傷した事故で、危険運転致死傷罪に問われた元警備員、小泉祐一被告(24)に対し、横浜地裁(栗田健一裁判長)は13日、懲役16年(求刑懲役20年)を言い渡した。小泉被告側は判決を不服として即日控訴した。
栗田裁判長は、車のタイヤ痕や破損状況などから「時速100−120キロで走行していた」と認定し、「時速65キロだった」とする弁護側の主張を退けた。その上で、「進行を制御することが困難な速度で走行し、進路外へ横滑りしながら歩道上に暴走させた」と指摘。被告が被害者らに謝罪の言葉すら述べていないことを批判した。
検察側の求刑は同罪の法定最高刑だったが、同裁判長は量刑判断について「他の事案との均衡をふまえ、最上限の懲役刑は躊躇(ちゆうちよ)を覚えざるを得ない」と述べた。
判決などによると、小泉被告は昨年10月17日午前11時20分ごろ、サレジオ学院北門前で、右カーブする市道を時速100キロ以上で走行。カーブを曲がりきれずに、歩道を歩いていた同校の高校生の列に突っ込み、当時高校1年の男子生徒2人を死亡させ、7人に重軽傷を負わせた。
判決後に記者会見した遺族らは「被告が反省しているとは思えない。2人も亡くなって懲役16年は短すぎる」と怒りをあらわにした。死亡した生徒の父(48)は「判決の(量刑)理由はとても抽象的。何人死ねば最高刑になるというのか」と語った。
(07/13 19:42)
http://www.sankei.co.jp/news/060713/sha076.htm
--- 引用終わり 判決では、求刑の20年に対して16年を言い渡している。この量刑が妥当かどうかはおれにはわからない。もちろん被害者の遺族からすればどんな量刑であっても重過ぎるということはないだろうし、加害者からすればどんな量刑でも軽すぎるということはないだろう。だが、罪の多寡を決めるために司法が存在する以上、その判断は尊重されるべきだ。そして、それでは感情的に納得できない時のため、また人間である以上必ず起こるミスを救済するために、控訴という手段も用意されている。不満があるならば控訴し、更に新たな判断を仰ぐのがルールに則った方法だろう。
この裁判長の発言には、法的な量刑に対する判断基準とは別に、他の裁判での判例とのバランスを取るという意味でのある程度の裁量があったことを示している。これは、法の下の平等を約束した憲法の姿勢に則ったものだし、刑量の判断を事例ごとに左右しないという意味で、正しいものだとおれは考えている。そして、どんな重刑を課しても被害者の失ったものは取り戻せないということから考えて、遺族の言葉はある意味正当性がある。遺族は、判決に対して文句を言う権利があるからだ。ただしその不満を具体化させるには、法に則った手続きが必要なことは言うまでもない。
ところがここで問題なのは、この判決に対する某ニュース番組の解説を担当する人間の発言だ。おれの記憶どおりに記述すると、彼はこのような内容の発言をした。
「司法は、被害者が若年であった場合などには、被害者の将来のことも考えて、もっと踏み込んだ判断を適用することもあっていいのではないでしょうか。貴重な未来を奪われたことを考えると、今回の判決には不満が残るのも仕方ないでしょう」
記憶に頼っているので、一言一句まで正確ではないことをもう一度記しておく。
彼のこの発言には、大いに問題があるとおれは考えている。もちろんマスコミの無責任な体質が前提としてあるとはいえ、仮にも解説を担当する立場の人間がこれだけいい加減な発言をすることが許されるのは日本くらいだろう。
この発言の何が問題なのか。それは、彼が「法の下の平等を無視している」ことおよび「人間の命に値段をつけていること」の二点である。
まず、彼の言う「踏み込んだ判断」とはつまり、「この被告に対してはもっと重い刑を適用してもいいいのではないか」という問題提起である。だがこの判決は、これまでの判例や法に定められた刑量などから導き出されたものであり、この正当な基準を無視しろというのでは、司法に平等性を無視しろと言っているのと同じだ。この事件は重くすべきだ、この事件は軽くすべきだなどということが、果たして一人前の社会人の発言かどうか。身内の犯罪は報道しないというマスコミの甘い体質と、性格を一にする意見ではないか。
さらに、彼の言う「被害者が若年者の場合は刑を重くしろ」というのは、人間の命の価値を、若い者は価値が高く、年を取ったものは価値がないとすることである。自分自身もかなりいい年をしているので、自分自身に価値がないというのと全く同じだ。彼の論で行けば、たとえ交通事故で5人を死なせたとしても、それが全て100歳以上の老人であるならば刑を軽くしろと言うことになる。馬鹿げた話だ。仮に、被害者が未成年で、かつ過去に殺人を犯した人間だった場合はどういう反応をするのだろうか。またはこの被害者が未来に、犯罪に手を染める可能性が全くないとでも言うのだろうか。だとしたらあまりに想像力のない発言である。
事実をありのままに伝えることが「報道」の真価である。その意味からすると、これらのニュースと称する番組が、報道を称するにはまだまだ未熟であり、また中立の立場でもなんでもないことが分かる。更には、今のマスコミで大きな顔をしている「解説」という人種が、耳障りのよさそうな結論だけを軽々に発言するだけの存在であることが、この件にもありありと表れている。
私たちは日常生活でこれらのニュース番組を見て、情報を知ることも多い。だがそこには、間違った価値観、間違った方法、間違った基準で作られた情報が残念なくらい多く存在している。これらを見分けるための、しっかりした自分なりの基準を持ち、惑わされない耳と目を養うことが、この情報の氾濫する社会では重要である。今回取り上げた例からも、「マスコミを信頼するな」という言葉が至言であることが、とてもよく分かる一例だ。
※注:本日のエントリは、2006/07/18に投稿しています。